サイト運営者のプロフィール

アンリ
アンリ
はじめまして。アンリと申します。

フランス・パリで駐在中の40代のサラリーマンです。

海外で駐在するサラリーマンとそのご家族が
①幸せに海外で生活すること
②サラリーマンとしてキャリアアップすること
を目指しています。
このブログに役立つ情報(生活、英語学習、ビジネススキルなど)を共有していきます。

こんにちはアンリと申します。

うちの会社はどうも海外赴任期間が長くなる傾向のようで、

10年以上赴任することになるかもしれません💦

赴任準備の手続きを進めるために様々なネットの情報を参考にさせてもらいましたが、

下記4つを充足するサイトがあれば嬉しかったなと思ったので、

ブログを立ち上げてみることにしました。(人生初ブログです)

・出来るだけ最新の情報が欲しい

・生の声が聞きたい(特に子供の教育関係)

・あっちこっちを探し回らずに済むように、まとまった情報が欲しい

・奥様目線だけではなく男性駐在員目線の欧州情報も欲しい

これから駐在される方々のお役に立てれば嬉しいです。

またこのブログを通じて似たような境遇の方々と交流させていただき、

自分も家族も楽しい欧州生活を送りたいなと思っています。

アンリの基本情報

オーバー40の中年父ちゃん

関西出身。パリ15区に在住。

子供二人です。できたのが遅かったので、60歳超えても働きます!

メーカー勤務の事務屋

今の会社が3社目の転職組です。
業界も3業界目なんですが、職種は一貫してサプライチェーン関係でした。
今回の赴任で初めて畑違いの事業管理の仕事となりました。
大学は商学部でド文系です。

学生の頃から海外好き

年単位の長期で海外に住むのは今回で3回目です。

2021年〜 :フランス駐在 (現在)

2012〜14年:オーストラリアの大学院に留学(会計とビジネスを修了)

2007〜8年:ベルギー駐在(1社目の会社に居た時です)

学生時代:短期の語学留学やインターンシップなどを使って1〜6ヶ月滞在
(フランス、アメリカ、ロシア、ドイツ、インドなど)

英語は上の下くらいのレベル

オーストラリア留学中に猛勉強しました。

TOEICは900点台です。(10年以上受けていませんが)

でもアメリカドラマはやっぱり字幕で見たい・・・

語学は子供の頃にやっておくべきだなと思います。

子供達には父ちゃんみたいに語学で苦労してほしくない。

でも日本社会で生きていけない人間にはなってほしくない。

やっぱりまずは日本語で教育を受けさすべきかなのか???まだ答えは出ず。悩ましい。

フランス語は初級レベル

学生の時に交換留学で1ヶ月フランス・ノルマンディーにホームステイしました。

その時に仏検3級を取りました。

その後は英語に注力してきたので、なんとなくは理解はできるけど全然喋れません。

赴任決まってから毎日勉強していますが、気長にがんばります。

ブログネームの「アンリ」の由来

ノルマンディーのホームステイ先のパパさんの名前を勝手に拝借しました。

陽気で料理が得意な主夫のムッシュHenri。

全くフランス語がわからないのに、ずーっとおしゃべりしてくれた。

当時、流行していた狂牛病を牛のSIDA(エイズ)だ!

と30分にわたって牛の絵を描いたりあの手この手でフランス語で説明してくれた。

コミュニケーションの達人。

「子供ができたら連れて来いよ!次はもっとフランス語で話そうな」と20年前に

約束してたんですが、子供見せる前に他界されてしまいました。

まさかフランス赴任することになるなんて。長生きして欲しかったなー😭

最近の趣味はダイエット:見事10キロ痩せました♪

ここ数年体重コントロールに苦しんでいましたが、

筋トレとケトジェニック、空腹ダイエットの組み合わせが効きました。

スープダイエット、もやしダイエット、ジョギング、水泳など色々試してきましたが、

人生で初めてダイエット成功した気がします♪

悩みについて

「転職組なので退職金は期待できない。子供もまだまだ小さい。
留学で散財した・・・」

などなど老後2000万円問題大丈夫かなーと、漠然とした不安を感じる毎日。
駐在手当などで給料が増えるので、うまく資産構築しなければ!🔥

このブログで提供したいもの

– 欧州に赴任する家庭(特に子育て世帯)向けの生活お役立ち情報
– 30代、40代の中堅サラリーマンのスキルアップに役立つビジネス情報
– 欧州通になるための政治、経済、文化の情報の発信
– 海外金融商品を使った資産形成(自身の記録)
– 駐在で来られている方々との交流の場

アンリの半生について

公務員の父と主婦の3番目の子供として大阪で育つ。

小、中、高、大と一貫して公立に通っていましたが、

大学に入る頃から病的に海外に取り憑かれてしまいました。

結果、パリ、メルボルン、ブリュッセル、インドのチェンナイなどで海外生活をしたり、

仕事において3業界、3社を渡り歩くなど、

ちょっとレールを逸脱した人生を送ることになりました。

海外という切り口で、一度自分の人生を客観的に振り返ってみようかと思い、

なぜ海外に興味を持って、どういった考えで今に至っているのかまとめてみました。

長文で恐縮ですが、ご興味あればお読みください。

プロローグ:隣の芝が青かった!

高校では身体が大きかったことでアメフト部に所属していた。

関西はアメフトが盛んで高校でも18校ほどチームがあり、

公立高校だったが古豪で上下関係なども厳しかった。

ある日、新しい練習方法の研究のためにアメリカの高校の練習風景ビデオを見て驚いた。

普通の公立校なのに照明付き専用スタジアム♪

しかも芝生♪♪

「アメリカすげー!!!!」

隣の芝は青い!という諺通りに、青い芝生のアメリカに魅了された。

隣の芝は青い

第1章:アメリカに留学したい!

浪人中もあの青い芝生が忘れずフツフツとアメリカに行きたい、留学したい!と

考えるようになった。

そもそもアメリカ留学目指すなら、なんで俺は日本の大学入るために勉強しているんだ?

なんか中途半端じゃないか?と思い詰め、センター試験直前に受験をやめようと決意。

6つ上の姉ちゃんに相談した。

「あんた、父さん母さんに今更受験やめるなんて言われへんやろ!

まずは大学入ってから留学考えたらいいんじゃないの!今のあんた逃げてるだけや!」

夜10時くらいに相談して、深夜2時くらいまで説教タイム。

どっからどう考えてもそれが正論。完全論破された。

第2章:受験英語の体現者

大学受験を終えて、すぐに英会話学校の説明会に行った。

受験直後で英語力はピーク!センター試験でも200点満点で180点以上取った♪

文系で数学は大嫌いだったけど、英語は得意だった。

英会話学校のレベルチェックで現れたのは白人のおっちゃん。

外国人とさしで話すのは初めて。なまガイジンに完全にびびる。

汗が噴き出すなか、言葉は・・・「I am パニック!」

とカタカナ英語を絞り出したが、あとは何も覚えていない。

「ボキャブラリー1点。発音1点。流暢さ1点。リスニング1点。

でも。。。熱意は10点満点!」

小粋なアメリカントークに穴があったら入りたかった。

絵に描いたような受験英語の体現者だった。

第3章:ボストン語学留学でジュテーム

結局、その英会話学校は高額すぎたので、高校の英語の先生が勧めてくれた

NHKラジオ英会話でいわゆるシャドーイングを徹底的に繰り返した。

寝てる間もずっと英語を聴き続ける。団地だったので襖の向こうで

寝ていた母から苦情を受ける。睡眠学習の効果は不明。

バイトして2年生の夏にボストンに1ヶ月の語学留学に申し込む。

そこで大きく運命が変わる出会いがあった。

語学学校主催の週末パーティーで出会ったフランス人のドロシーちゃん。

一目ぼれ!めっちゃ可愛い💕

つまらないジョークでも「オーマイガッ!」を連発。とにかく可愛かった。

でもドロシーはその日が最後の夜。明日は帰国するとのこと。

ノリで空港まで見送りに行くよ。と軽口を叩いていた。かなり酔っていた。

翌日深酒がたたって昼過ぎに起きると、掲示板に置き手紙。

「アンリ、空港で待っているわよ💕ドロシー」。すっかり忘れていた💦

慌ててで空港まで追いかける。(空港までバスで1時間以上、普通は行かない距離)

空港で奇跡的に出発直前のドロシーを発見。

ドロシーもまさか本当に来るとは思っていなかったようで、びっくりしていた。

驚いた顔もかわいい。

10分ほど話をしてお別れ & 人生で初めてのビズ(ほっぺにチュッチュする挨拶

昇天👼

俺はヨーロッパ人材やな!とあっさりアメリカを見限った。

 

第4章:フランスへ交換留学

すっかりフランスの虜となったのはいいが、学生の身分ではそうそう旅行はできない。

何かないかなーと探していたら、たまたま大学の掲示板でフランスの大学との

1ヶ月の交換留学プログラムを発見。飛行機代も現地滞在費も大学負担!これだ!

(こんな都合の良い話あるかいなと思うが、実話です。)

フランスに行く前に付け焼き刃で3ヶ月勉強したけど、フランス語は喋れない。

でも「トゥエラ プリュ ベル フィーユ。君は世界一可愛い」という言葉は覚えた!

待ってろドローシー!とフランス滞在中に愛しのドロシーに会いに行く。

ドロシーはおばあちゃんと両親と暮らしていた。

本当に来たのか!?という微妙な反応を受けつつ、ドロシーの家で食事をいただく。

記念写真を撮ろうかと、持ってきた写るんです(懐かしい)で写真を撮ろうと、

ドロシーがおばあちゃんに写真をお願いする。

おばあちゃんは高齢のため震えてうまく写真が撮れない。

「メルダ!メルダ!」と英語でいうShitをおばあちゃんに連発するドロシー。

あれれ、ドロシーちゃん、口が悪い。。。。

メルダの連呼とともに恋心が音を立てて冷めていった。

(*ちなみにドロシーちゃんは大人びて見えたけど、当時はまだ高校生でした。

清らかな関係でしたので悪しからず。)

第5章:地獄のインターンシップ@インド

フランスから帰ってきて、気づけば就活が迫っていた。

アメリカ、フランスに短期留学したけれど、当時の英語力はTOEIC760点。

これで就活でアピールできるのか?

というか、大学受験やめてアメリカの大学に行こうと思ってたはずなのに、

こんな中途半端な形で普通に就職してて良いのか?

これじゃあ大学受験から逃げているだけだったと言った姉ちゃんの言う通りの

口だけの男やなーとの思いがあった。

かといって留学する金はない。奨学金取れるほどの頭脳もない。

ふとフランスの学生から聞いた海外インターンシップを思い出す。

当時、日本ではインターンシップはまだ知られていなかったが、

フランスでは就職先探しには必須な一般的なものだった。

調べてみると東欧かインドが日本人インターンを募集していた。

時はITバブルのころ。インドがIT大国として勃興しつつある時期だった。

一応英語圏だし、就活のネタとしても面白い!と結構安直にインド行きを決める。

 

 

 

 

 

 

 

 

研修先の会社はNASDAQに上場しているアメリカ企業だが、

経営陣はインド人が主体で、実質的にはインド企業だった。

日本市場の開拓をするために、市場調査をする日本人学生インターンを探していた。

インドでのオフショア開発に興味がありそうな日本企業をネットで検索してリスト化して、

会ってくれそうな担当者を探すためにひたすら国際電話をするという業務だった。

ITのことは当時は何も知らず。セールストークを作成するために、

「何がうちの売りって言えばいいの?」ってインド人の上司に聞いても

「何でもできる!No Problemだ!」とインド的な回答。

怪しすぎるやん!と思いながら、50社くらい電話したら

それでも意外と数社はあってくれることになった。

もしかして上司と一緒に日本に出張行けちゃうのか♪と期待してたが、

アメリカの9.11のテロが発生して海外出張は頓挫。

外務省からはアメリカ関係の建物に近づかないで下さいと通達が来たが、

「いやいや、うちの会社一応アメリカの企業なんですけど、

っていうか会社の真横はアメリカ領事館なんですけど・・・」と思いつつ、

機関銃が配備された物々しいアメリカ領事館の前でチャイを飲んでいた。

 

無論、正露丸が全く効かない2週間の苦行も経験した。

色々ダイエットを試したが、インド式は完全に結果にコミットしてくれた。

洗濯はバケツで手洗い。1ヶ月で服が変色した。

シャワーのボイラーが2週目に壊れ、半年間冷水シャワーを浴びた。

インドでも朝夕は寒く、たまらずキッチンの湯沸かしポットで湯を作って身体を洗う。

2杯目のお湯を作った頃にキッチンにポットがないことに気づいたフラットメイトに

ポットを没収され、お湯で体を洗う作戦は儚く潰えた・・・

とまあ、ここまでは飲み会で使い古したインドあるある武勇伝。

 

ここからはあまり言いたくないトラウマの話。(ちょっと暗い話でごめんなさい。)

とにかく辛かったのは、英語と人間関係。

同じ会社で研修してたドイツ、オランダ人など、

インターンシップで来ているヨーロッパ系の学生5人とアパートをシェア。

24時間、寝ている時以外はずーっと一緒の共同生活。

あいのりやテラスハウスの環境をイメージしてもらうとわかりやすいかも知れない。

彼らはとにかくタフ。週末はクラブで朝まで踊ってそのまま2時間かけて

バスで2時間の隣街のビーチで日光浴。家に帰って寝たい!

なんて弱音は日本男児として吐けない。

日本の学生と違い、彼らの会話の範囲は幅広かった。

学生らしいバイトでの武勇伝や色恋の話だけではなく政治、経済、歴史まで

各々がジョークを交えながら意見をぶつけ合っていた。

理解するのに必死で全く話に入れない。

これは話せそうなトピックだなと、文章を考えてたら次のトピックに移ってていく。

だんだんとリスニングしているのも疲れてきて、

愛想笑いとタバコを吸って時間を潰す。3−4時間無言なんてことはザラにあった。

ある時、近所に住んでいたチェコ人から「おい!俺のジョークを聞くか?」と、

両肩をもたれ、顔面30cmの距離でジョークを聞かされる。が、全くわからん。

とにかく相手の表情を凝視!相手の目がピクッと動いた!ここだー!と間髪入れず

全力で笑う。「最高!」とハイタッチを交わして無事解放。

こんな愛想笑いは上手くなったが、そんなものが毎回通用するはずもなく

「もっと社交的になれよ」と苦言を呈されるも、気の利いた返えしもできず苦笑い。

フラットメイトの家族から電話があったことメモに残し忘れたら、

「I don’t trust you !Japanese is rude!」とベルギー人の女に罵られる。

「この程度で喚くな、黙れ、このビッチ!」 と思うが言い返すこともできずにただ謝る。

などなど、これ以上書くとメンタル的にきついので書かないが、

他にも2、3個やらかした。

自分の英語力のなさと精神的な未熟さを痛感させられた暗黒の半年間だった。

帰国後に受けたTOEICは900点を超え、リスニングはお陰様で満点になっていた。

それでも最後まで愛想笑いを続けるしかなかったのだが・・・。

第6章:グローバルな仕事がしたくて日系製造業へ

完全に心が折れ、一人になりたくてインドの田舎に旅行に出かけた時、

売店で売られていた雑誌がふと目に入った。

”●●●,Conquer the Market!! ( ●●●社がインド市場を征服する!)”

インド版エコノミスト誌で日本のA社について10数ページの大特集をしていた。

貪るように何度も何度もその記事を読んだ。

惨めな自分と対局にあるような輝しい日系グローバル企業。

自分もこの会社で働きたいな、と思った。

帰国後、インド時代の笑える方の経験をネタにして、無事その会社から内定をもらえた。

「お前、海外、海外って海外なんてそうそう人生で何度も行くもんじゃないんやぞ!

人生舐めるなよ!」と卒業を1年延ばしてインドへ行くことに大反対だったオヤジも

有名企業への就職を勝ち取った途端、手のひらを返して喜んでくれた。

 

とはいえ、インドのメッキは入社後すぐに剥がれ、

最初の4年間は典型的な出来の悪い新人として、毎日叱られる日々だった。

「お前は英語はS級かもしれないが、日本語はD級だな!」

「おい、何ボーっとしている!幽体離脱するな!仕事をためるな!

この案件の金額をアコムで借りたら利子はいくらだ!罰金!!」

「お前は典型的なB型だな、ヒューマンエラーの典型だ!」

と昭和の香りを色濃くまとった鬼軍曹に毎日しごかれ、

胃痛に悩まされる日々だった。

 

 

 

 

 

 

 

インド時代と並んでこの新人時代には2度と戻りたくないが、

No Pain No Gain!(痛みなくして成長なし)を体感した濃密な時間だった。

第7章:念願の海外勤務

社会人5年目になり、運よく若手向けの海外支社での研修プログラムに選ばれた。

アメリカ、中国など複数の候補があった中で、希望通りヨーロッパ(ベルギー)に

行くことになった。(欧州とは何故か縁がある!)

ベルギーオフィスは現地人80名、日本人駐在員10名の組織で

現地マネージャーと同格で働くコーディネータとしての業務だった。

担当したグループのメンバーはマネージャは地元のベルギー人だったが、

メンバーはイギリス、フランス、トルコ人、ポーランドと

人種もジェンダーも多種多様なグループだった。

更に上司もオーストラリア人、その上がトルコ人、更にその上がイギリス人と

EU圏内を中心に10数ヵ国の国籍を持つメンバーで構成される組織だった。

ブリュッセルはフランス語圏だが、業務は英語で行われていた。

ちなみに各ローカルマネージャーには同格の日本人駐在員がいて、

ローカルの指示系統とは別に日本人指示系統も存在する2重構造な組織だった。

初めての管理職業務で昼間はマネージャーと連携してメンバーの指導や会議に忙殺された。

自分の仕事はローカルが帰宅する17時以降から深夜まで働いていた。

運が悪いことに、水害、ストライキ、取引先の倒産など2年間の赴任期間中、

ほぼ切れ目なくトラブルが続き、日本が稼働する深夜まで業務することも多かった。

一度、深夜まで働いた時は、脳みそが疲れ切っており、

対向車が真っ直ぐ自分の方に走ってくるまで、

5分以上反対車線を逆走していることに気づかなかった。

かなりびっくりしたが、相手の方がもっと驚いただろう。日本人あるあるだろうか?

そんなアンリを見かねて、オーストラリア人の上司からは、

「アンリ早く帰れ、長時間働いても効率が悪いぞ!

せっかく欧州にいるんだからオフィスにいるだけじゃ勿体無いぞ。」

とアドバイスしてくれるが、日本人上司からは容赦なく仕事が降ってくる。

資料作成のためにローカルメンバーに情報を求めても、

「そんなことわからない。なんでそんな細かい情報が必要なんだ?」とそっけない回答。

無理くり出てもらった資料は、日本語に翻訳すると全く使えない稚拙な内容。

仕方なく他部署や取引先の日本人ネットワークを駆使して、それっぽい資料を自作する。

結果、メンバーはそれは自分の業務じゃないんだなと判断して、

どれだけトラブルで火を吹いても、

「アンリさん、Enjoy your life! 」と17時に帰宅していった。

(流石に2回くらいは19時くらいまで頑張ってくれた時もあったが・・・)

絵に描いたような悪循環、孤立だった。

「あいつらに期待しても無駄だから」と他の駐在員の先輩達は割り切っていた。

とはいえ、日本人の労働生産性の低さは周知の事実。

俺の頑張りは徒労なんじゃないか?

結局は日本人の日本人による日本人のための会社なのか?

会社の風土に疑念を持つようになった。

 

その中で唯一本音で相談できる現地人はオーストラリア人上司だった。

彼は将来のオーストラリア支社の幹部候補生として欧州で研修中だった。

欧州人のぬるい働き方には彼も色々思っており、オーストラリアの組織に比べて

いかに欧州支社が組織として整備されていないかを嘆いていた。

そしてその大きな要因は日本駐在員の存在だとも繰り返し指摘された。

いつも日本人が強引に自分達で仕事を完結させるから現地人が育たないんだと。

確かに自分が頑張れば頑張るほどローカルとの溝が深まっていた。

「アンリよ。俺が大事にしている心構えを教えてやる。5Worksだ。

Hard Work:情熱を持って働け。これはお前はできている。

Foot Work:席にいるだけじゃダメだ。現場にいけ。これもまあできている。

Brain Work:闇雲に頑張ってもダメだ。もっと頭使ってスマートに働け。

Net Work:コネや情報網をもて。

Team Work:一人で仕事するな、メンバーにやらせろ。でも求めすぎるな。

60の能力しかないメンバーに100を求めちゃダメだ。

60の力をきっちり引き出すのがマネージメントだ。

この5つができればお前はスーパーヒーローになれる。」

今でも完全には出来てはいないが、いつかはスーパーヒーローになりたいものだ。

 

そんな中、アンリにグローバルビジネスデビューの日がきた。

倒産した取引先の再建策を協議するため、銀行、会計事務所、破産管財人、

同じ取引先を使っている競合他社が集うテレフォンカンファレンスだ。

自分以外は全員ネイティブ。50%くらいしかわからず無言で座っているだけ。

インドから6年、自分なりに頑張ってきたがやっぱり勝負にならない・・・

同席したオーストラリア人の上司は英国圏で法律体系が似ていることもあり、

交渉をコントロールしていた。

かっこいい!!この人みたいになりたい!!と心から憧れた。

反面、海外駐在を繰り返しても、こんな風にはなれないよな。とも思った。

海外で日本企業の肩書きなしで勝負しないといけないんじゃないか?

将来についてどうするか、答えは見つからないまま2年間の赴任が終了した。

 

 

 

 

 

 

 

第8章:To Go or Not To Go?

2年の欧州駐在の後、日本に帰国し、妻と出会って結婚した。

安定とステータスを取って会社に残るか、夢を求めて海外に行くか・・・迷っていた。

仕事は順調で、日経新聞に乗るような大きなプロジェクトも担当させてもらい、

経営陣への報告も頻繁にさせてもらった。大変だったが、やりがいもあった。

何より給料がなくなる生活というのが恐ろしかった。

もう一人身でもないし、また親不孝するのも申し訳ないし・・・

散々悩んだが、結局インド時代のトラウマとオーストラリア人上司への憧れが勝った。

日本帰国から3年後、丸9年お世話になった会社をやめた。

自分の人生において最も悩んだ決断であり、未だ良かったのかよくわからない。

ただ「スラムダンクの矢沢君」のように後年悔やむような人生だけは送りたくない、

その思いが自分を突き動かす原動力になっていることは間違いない。

第9章:移民になる

卒業後に現地で就職・永住することを考え、移民制度の整ったオーストラリアに留学。

むろん、欧州時代のオーストラリア人上司の影響もあった。

永住権を取れる職種は会計士かIT関係だったので、会計とビジネスのコースを選択。

海外の大学院は噂に違わず日々の課題をこなすのは大変だった。

特に1年目の法律の授業は苦しかった。教科書を読むたびに自分の解釈が変わってしまう。

落第したら、追加の学費が発生する。必死で分厚い教科書を読む。

藁をも掴む思いで、クラスメイトと勉強会を立ち上げた。

烏合の衆だけどないよりマシかと思ってたら、

一人の中国人がどこやらか過去問を持ってきた。

大量にいる中国人留学生の結束力は凄まじく、中には全く英語ができない学生もいる。

それでも無事卒業できるのは、「関係(グァンシー)」という助け合い文化のおかげ。

過去問もその流れで中国人ネットワークで出回っていたものだった。

なんとほぼ同じ問題がテストに出たのである!落第どころか優をとった!

とにかくジタバタしたら奇跡が起きた。

時々人生は嘘みたいなことが起こるから面白い。

 

その頃、妻は現地のジャパニーズレストランなどで働いて家計をサポートしてくれていた。

バイト先で韓国人やインドネシア人と友達になり、楽しく過ごしているようだったが、

後年「インド人と中国人に囲まれて雑草のように生きていた」とボソッと言っていた。

苦労かけました、ありがとう。

 

 

 

 

 

 

 

大学院2年目に入ったころに、ベルギー時代のオーストラリア人上司から連絡があった。

彼はベルギーでの4年間の研修が終わり、オーストラリア支社で部長に昇格していた。

「日本人の駐在員が帰国するが後任はいない。パートタイムで働く気あるか?」

予想外の仕事のオファー。給料も学生の身分からすると破格に良かった。

だけど元本社の人間が海外子会社の契約社員になるって・・・カッコ悪い。

一瞬迷ったが。背に腹は変えられないし、あの上司と働けるのは魅力的だった。

後年日本に戻った際に聞いた話では、貧乏暮らしの我々夫婦を心配して日本本社に特例で

雇えないか掛け合ってくれていたらしい。この恩は一生をかけても返せない😭。

 

結果的に、永住権取得のために必要なポイントが届かず、

夢破れ3年後に日本に帰ることになったが、このバイト経験は得難いものとなった。

同じ会社で海外駐在員と現地契約社員の両方を経験する人はなかなかいないだろう。

現地人の立場から日本人駐在員を見て、ローカルメンバーの本音を知ることができた。

数年おきに入れ替わり立ち替わり、偉そうで英語の下手な日本人がくる。

現地のこともわかっていないのに自分色を出そうとする。

本社の方ばかり見て、現地人を信用しないし、任してくれない。

駐在員の立場もわかるので無論それは仕方ない面もあるんだけど、

ローカルからはこう見えるんだなと思った。

ある程度は日本本社から叩かれても、文句言われても、

ローカルに任せて何もしない。だけど責任は取る。

その胆力がある駐在員がローカルには評価されていた。

第10章:これから

「僕の人生は今は何章目くらいなんだろう?」というウルフルズ曲があるが、

振り返ると自分の人生は10章を超えたようだ。色々あったような、早かったような。

日本に帰国後、外資系に就職したが、風土に馴染めず、また日系製造業に戻った。

日本でもう一度キャリアを立てなおそうと遮二無二に働きながら、

子育てに忙しい日々を送っていたら、望外のフランス駐在に選ばれた。

下の子が小学生になるまでは、海外勤務の希望を出すつもりはなかったので、

想定外の出来事だったが、縁のある欧州に戻れるのは素直に嬉しいことだ。

ベルギー時代、インド時代、フランス留学時の旧友に会えるのも楽しみだ。

ちなみにインド時代のフラットメイトはコンサルや政府系機関で働いている。

やはり相当優秀な面子が揃っていたようだ。ちょとは差が縮まっているといいのだが。。。

 

ベルギーに赴任する際、当時の専務からおくられた訓示をふとの最近思い出した。

「全世界に散らばる駐在員へ、駐在中はとにかく家族優先!

 仕事は二の次、三の次で良い!」

当時は独身だったからピンとこなかったが、

いざ自分が親になると、親の都合で海外に連れて来られる子供達が心配だ。

ベルギー駐在時には先輩から、

「毎朝学校に送って行ってるけど、今日子供が初めて車から校舎まで走っていったわ。

丸2年かかった。『あいつ、今走って行ったな〜。』と車中で夫婦で涙したわ。」

との話を聞いたことも思い出した。

悪化するアジア人差別や言葉の問題などで不要な劣等感を持つんじゃないだろうか?

日本に戻った時は逆に日本社会に適合できるだろうか?

父ちゃんみたいに言葉で苦労させたくない。でも日本人のアイデンティーは持って欲しい。

なるようにしかならないとは思うが、考え出すと不安は尽きない。

とにかく散々好き勝手やって来て、親不孝と妻に苦労かけてきた男だが、

父として家族が幸せに暮らせるように努力したいと思う。

最後に

ドロシー編やインド編はちょっとどころではなく恥ずかしいが、

コロナ時代の今、自分にもいつ何があるかわからない。

将来、子供達がこのブログを読んだ時に、父ちゃんはこんな人間だったんだなと

微笑ましく苦笑いしてくれることを想像して極力飾らずに書いてみた。

 

また、改めてオーストラリア時代を振り返り、オーストラリア人上司以外にも

見返りを求めない純然たるご好意やご支援を頂き、支えていただいたことを思い出した。

30歳を超えた肩書きも金もない学生になんであんなに優しくしてくれたのか?

自分にはない人間力、包容力にただただ圧倒される。

それ比べて、40歳を超えても自分は相変わらず打算的で自己中心的な人間だ。

頂いた恩は大きすぎて、生涯をかけてもあの人達にお返しすることはできない。

また彼らもそれを求めてはいないようだ。(悲しくも鬼籍に入った方もいらっしゃる。)

自分がやるべきことは、感謝の気持ちを忘れずに、

返しきれないご好意を少しずつ誰か必要な人に渡せる人間になることだと思っている。

それを実行するためのツールの一つとしてこのブログを活用できればと考えている。